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   <title>ローランギャロス（全仏オープンテニス）優勝選手名鑑</title>
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   <subtitle>テニス4大（グランドスラム）大会の一つであるローランギャロス（テニス全仏オープン）の概要・日程・歴史・過去の優勝者などの情報をお届けします。
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   <title>全仏オープンテニス2008年　日程と開催地</title>
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   <published>2007-05-12T03:00:50Z</published>
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   <summary> ２００８年の全仏オープンテニスは、５月２５日（日）から６月８日（日）まで、フラ...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="全仏オープンテニス２００８年日程" src="http://www.tennis-players.info/images/french.jpg"  />

<strong>２００８年の全仏オープンテニス</strong>は、<b>５月２５日（日）から６月８日（日）まで</b>、フランスのパリ郊外にある<strong>ローランギャロス</strong>・ナショナルテニスセンターで開催されます。
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      <![CDATA[<img alt="全仏オープンテニス２００８年日程" src="http://www.tennis-players.info/images/french.jpg"  />

<strong>２００８年の全仏オープンテニス</strong>は、<b>５月２５日（日）から６月８日（日）まで</b>、フランスのパリ郊外にある<strong>ローランギャロス</strong>・ナショナルテニスセンターで開催されます。

<strong>全仏オープンテニス</strong>が行われる<strong>ローランギャロス</strong>のコートは、レッドクレーコートで、レンガを細かく砕いたものなので、あのような独特の赤い色をしています。

同じようなレッドクレーコートは、フェデラーいわく、「<strong>全仏オープンテニス</strong>のレッドクレーは、ボールの威力を吸収するため、イタリアのローマ大会（同じくレッドクレーコート）に比べ、バウンドが遅い」。

レッドクレーコートでは、一発で決めることが難しいため、ラリーが長く続き、多彩なテクニックを用いて戦うことが重要だということです。


<strong><b>開催地</b></strong>：ローランギャロス・ナショナルテニスセンター
　ROLAND GARROS NATIONAL TENNIS CENTER


<strong><b>最寄り駅</b></strong>：ポルト・ドトゥイユ（Porte d'Auteuil）

<strong><b>コートまでの主な交通機関</b></strong>：地下鉄、路線バス、シャトルバス、タクシー

Metro（地下鉄）
Boulogne Pont de St-Cloud 方面のメトロ(地下鉄)10番に乗ってPorte d'Auteuil(ポルト・ドトゥイユ)駅にて下車。駅から大会会場：ローランギャロスまでは徒歩5分ほどです。

Line 9 : Mairie de Montreuil - Pont de Sèvres (use stations Michel-Ange Auteuil, Michel-Ange Molitor or Porte de Saint-Cloud) 
Line 10 : Gare d'Austerlitz-Boulogne (Porte d'Auteuil station) BUS Line 22 : Opéra - Porte de Saint Cloud (get off at last stop)

Buses（路線バス）
Line 22 : Opéra - Porte de Saint-Cloud (get off at Michel-Ange-Auteuil) 
Line 32 : Gare de l'Est - Porte d'Auteuil (get off at last stop)

Line 52 : Opéra - Pont de Saint-Cloud (get off at Porte d'Auteuil or la Tourelle)

Line 62 : Cours de Vincennes - Porte de Saint Cloud (get off at last stop)

Line 72 : Hôtel de Ville - Pont de Saint-Cloud (get off at la Tourelle)

Line 123 : Porte d'Auteuil - Mairie d'Issy (get off at Roland-Garros)

Line 241 : Suresnes - Porte d'Auteuil (get off at Suzanne-Lenglen) 

PC1 : Petite Ceinture (get off at Porte d'Auteuil, Porte Molitor or Porte de Saint-Cloud)Mairie de Montreuil - Pont de Sèvres (stations Michel-Ange Auteuil, Michel-Ange Molitor ou Porte de Saint-Cloud) 

Shuttle buses（シャトルバス）
A free shuttle bus service will run between the various car-parks, Porte d'Auteuil, Porte de Saint-Cloud, the metro entrances and the entrance to Roland Garros stadium. 

Taxis（タクシー）
Two temporary taxi ranks will be set up for the public during the tournament, situated on the corner of Rue Gordon-Bennet and Boulevard d'Auteuil, and on the corner of Avenue de la Porte d'Auteuil et Rue Gordon-Bennett. 

Car parks（駐車場）
Spectators can use the following car-parks which have been set up by the tournament organising committee (2006 tariffs) : 
Saint-Cloud lawn: 1,000 spaces, 5 euros per day, 2.50 euros per half-day

Porte d'Auteuil shopping centre: 900 spaces, 15 euros per day.

Saint-Cloud car-park: 500 spaces, 16 euros per day.

Point du Jour car-park (near to Coubertin Stadium) : 445 spaces, 25 euros per day.



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   <title>錦織 圭（にしこり けい）：Nishikori Kei</title>
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   <published>2007-05-11T14:10:56Z</published>
   <updated>2008-05-19T16:22:04Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="錦織 圭　似顔絵" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/nishikori.jpg" width="200"  />



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      <![CDATA[<img alt="錦織 圭 にしこり けい　画像" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/nishikori.jpg"  />

<strong>錦織 圭 （にしこり けい）</strong>（Nishikori Kei）は、島根県松江市出身の男子プロテニス選手。</strong>


■国籍 日本 

■出身国/居住国 日本島根県松江市/アメリカ・フロリダ州 

■生年月日 1989年12月29日 

■性別 男 

■利き腕 　右利き/バックハンド両手打ち

■身長 178 cm 

■体重 70 kg

■プロ転向日 2007年 

■2007年度最終ランキング 287位 


<strong>錦織　圭はIMGボロテリー・アカデミー所属。</strong>

開星中学校（卒業）→開星高等学校（中退）→青森山田高校通信課程東京校(編入）2年生に在籍している。

2008年2月17日、18歳2ヶ月でATPツアー初優勝を達成し、日本人男子選手として史上2人目の偉業を達成した。

5歳からテニスを始め、2001年に「全国小学生テニス選手権」で優勝。

2003年に渡米し、NBTA（ニック・ボロテリー・テニスアカデミー）に日本テニス協会盛田正明会長が運営する「盛田正明テニス・ファンド」の奨学金で留学する。

以降アメリカ合衆国フロリダを活動拠点としている。

2003年の「オレンジボウル選手権」（ジュニアテニスの世界選手権）14歳以下の部で準優勝した。

2006年全仏オープン男子ジュニアダブルス部門で、錦織はエミリアーノ・マッサ（アルゼンチン）とペアを組み、日本男子史上初の4大大会ジュニアダブルス優勝の快挙を果たした。

この大会ではシングルスでも8強に入っている。

2007年7月にインディアナポリスで行われた「RCA選手権」で、<strong>日本人男子最年少のATPツアー8強に入り</strong>、世界ランキング27位のドミトリー・ツルスノフ（ロシア）と対戦した。

2008年2月17日、錦織はアメリカ・フロリダ州デルレイビーチでの「デルレイビーチ国際選手権」で予選から勝ち上がると、初進出の決勝で第1シードのジェームズ・ブレーク（アメリカ、最高ランキング4位）を 3-6, 6-1, 6-4 で破り、ツアー初優勝を達成した。

日本人男子選手のATPツアー制覇は、1992年4月に「韓国オープン」を制覇した松岡修造以来16年ぶり2人目の快挙となった。

この優勝により、彼の世界ランキングは244位から一気に131位に上がった。
この快挙を昨今の「王子」ブームから「<strong>テニスの王子様</strong>」と称するマスコミもある。

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   <title>ロジャー・フェデラー：Roger Federer</title>
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   <published>2007-05-10T15:10:58Z</published>
   <updated>2007-05-21T13:36:17Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="ロジャー・フェデラー　ウィンブルドン　優勝" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Federer.jpg" width="200" />

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      <![CDATA[<img alt="ロジャー・フェデラー　ウィンブルドン　優勝" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Federer.jpg"  />

ロジャー・フェデラー（Roger Federer）は、スイス・バーゼル出身の男子プロテニス選手。

■国籍 スイス 

■出身国/居住国 スイス/スイス 

■生年月日 1981年8月8日 

■性別 男 

■利き腕 右利き 

■身長 185 cm 

■体重 80 kg 

■プロ転向日 1998年 


ロジャー・フェデラーは、右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。

現在の男子プロテニス界を牽引するオールラウンド・プレーヤーである。

2004年2月2日から、世界ランキング1位を連続で保持してきた。


2001年ウィンブルドン4回戦で、大会4連覇中だった第1シードのピート・サンプラスを「3時間41分」のフルセット（スコア：7-6, 5-7, 6-4, 6-7, 7-5）で破った。

1993年 - 2000年までの8年間を通して、サンプラスが同選手権の優勝を逃したのは1996年大会の1度だけであったため、この試合はサンプラス時代の終焉を告げる出来事となった。

快挙を成し遂げた19歳のロジャー・フェデラーは、世界中のテニスファンから大きな注目を集めた。

それから2年後、2003年ウィンブルドン選手権の男子シングルス決勝でマーク・フィリプーシス（オーストラリア）を 7-6, 6-2, 7-6 のストレートで破り、4大大会初優勝を達成する。

こうしてロジャー・フェデラーは、スイス出身のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。


2004年には全豪オープン、ウィンブルドン、全米オープンの年間3冠を獲得したが、これは1988年のマッツ・ビランデル以来16年ぶりの快挙であった。

この年はATPツアーでも年間11勝を挙げている。

ロジャー・フェデラーは、2004年2月から現在まで世界ランキング1位である。


2005年もウィンブルドンと全米オープンで優勝し、4大大会年間2冠を獲得した。

ウィンブルドンでは2年連続の決勝対決となったアンディ・ロディックに快勝し、大会史上8人目となる3連覇を達成。

全米オープンではアンドレ・アガシを 6-3, 2-6, 7-6, 6-1 で破り、大会2連覇を果たす。


男子テニス年間最終戦「テニス・マスターズ・カップ」では、決勝でナルバンディアンに7-6, 7-6, 2-6, 1-6, 6-7 でまさかの逆転負けを喫するが、ナルバンディアンは表彰式のスピーチで「君にとってこのタイトルは最後ではないだろうから、今回は僕のものにさせてくれよ。」とコメント。
ロジャー・フェデラーの強さを認めた。


2006年全豪オープンでは決勝でキプロスの新星マルコス・バグダティスに勝ち、2年ぶり2度目の優勝。

4大大会決勝初進出から「7連勝」はテニス史上の新記録となった。

ところが、全仏オープンの決勝戦で、苦手のラファエル・ナダルに 6-1, 1-6, 4-6, 6-7 で敗れてしまい、初めての準優勝を全仏で経験した。


最も得意なウィンブルドンでは強さを維持し、1回戦でリシャール・ガスケ（フランス）を破った勝利により、スウェーデンのビョルン・ボルグが持っていた芝生コートの最多連勝記録「41連勝」を更新する。

同大会の決勝戦では、全仏決勝で敗れたナダルに雪辱を果たし、芝生コートの連勝記録も「48勝」に伸ばした。

同年の全米オープンでは年間3冠とともに、史上3人目の大会3連覇を達成した。


11月に開催されたテニス・マスターズ・カップでは、決勝戦でジェームズ・ブレークを 6-0, 6-3, 6-4 のストレートで破り、2年ぶり3度目の優勝を果たす。

これでロジャー・フェデラーの2006年度のATPツアー優勝は、4大大会年間3冠を含む「12勝」となり、史上初の、3年連続の10勝以上をマークした。

また、年間獲得賞金ではピート・サンプラスが1997年に記録した金額を大幅に更新する約843万ドルという歴代最高記録を残した。


2007年全豪オープンでは、1回戦から決勝までの7戦を1セットも失うことなく、2年連続3度目の優勝を達成した。

4大大会男子シングルスにおける全試合ストレート勝ちは、1980年全仏オープンのビョルン・ボルグ以来27年ぶり史上4人目で、全豪オープンでは1971年のケン・ローズウォール以来36年ぶりであった。

この全豪オープンでは、グランドスラム7大会連続決勝進出の歴代1位タイ記録とともに、グランドスラム3大会連続優勝を2回というオープン化後初の記録を達成した。

2007年2月26日、ロジャー・フェデラーの世界ランキング1位連続保持記録は「161週」に入り、それまでの男子歴代1位記録だったジミー・コナーズの「160週」を抜いて男子歴代1位になった。]]>
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   <title>セリーナ・ウィリアムズ：Serena Williams</title>
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   <published>2007-05-10T10:42:16Z</published>
   <updated>2007-05-21T13:38:02Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="セリーナ・ウィリアムズ　似顔絵　ウィンブルドン" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Serena.jpg"  />


セリーナ・ウィリアムズ（Serena Williams）は、アメリカ・ミシガン州サギノー出身の女子プロテニス選手。

■国籍 アメリカ 

■出身国/居住国 アメリカ/アメリカ 

■生年月日 1981年9月26日 

■性別 女 

■利き腕 右利き (バックハンド両手打ち) 

■身長 175 cm 

■体重 59 kg 

■プロ転向日 1995年 


セリーナ・ウィリアムズは、5人姉妹の5女として生まれる。

4女の姉ヴィーナス・ウィリアムズとともに、女子テニス界に「パワーテニス」を持ち込んだ選手として知られている。

彼女はテニスの歴史を通じて、シングルス・ダブルスともに「キャリア・グランドスラム」を達成した数少ない女子選手の1人でもある。


セリーナ・ウィリアムズは、1999年2月末の「パリ・インドア選手権」と3月前半の「エバート・カップ」で2大会連続優勝を飾り、続く「リプトン国際選手権」で姉ヴィーナスとの“姉妹対決の決勝”に敗れたが、「16連勝」を挙げて世界の舞台に名乗りを上げた。

1999年の全米オープンで、「17歳11ヶ月」の若さで4大大会初優勝を達成。

決勝でマルチナ・ヒンギスを 6-3, 7-6 で破り、1958年全米オープンのアリシア・ギブソン（1927年 - 2003年）以来2人目の黒人女性チャンピオンとなった。（ギブソンは1957年と1958年の全米選手権で大会連覇を達成した人である。）

姉よりも早くシングルス初優勝を決めたが、ヴィーナスは2000年のウィンブルドン選手権で妹に追いついた。

セリーナはその後、しばらく姉ヴィーナスの活躍の陰に隠れていた。

2001年の全米オープンで初めて「4大大会の姉妹対決決勝」を実現させるが、最初の時は姉に 2-6, 4-6 で敗れている。

2002年の全仏オープンから2003年の全豪オープンまで「4大会連続」で姉妹対決の決勝を実現させ、妹のセリーナが4連勝を果たした。

テニス4大大会の4連勝はシュテフィ・グラフ以来6人目の偉業達成となった（グラフは1988年に女子テニス史上3人目の「年間グランドスラム」を達成したが、1993年全仏オープンから1994年全豪オープンまでの4連勝も記録している）。

この偉業を本人が「セリーナ・スラム」と命名した（姉妹が憧れてきたゴルフのタイガー・ウッズのメジャー大会4連勝が、同じく2年間にまたがる記録として“タイガー・スラム”と呼ばれたので、それにあやかっての命名であろう）。

しかし2003年全仏オープンの準決勝でジュスティーヌ・エナン・アーデンに敗れて連勝記録が止まる。

続くウィンブルドン選手権でもう1度姉妹対決の決勝を戦い、この時も妹のセリーナが勝利した。

これで姉妹対決の決勝戦は、妹セリーナの「5勝1敗」となった。その後姉妹2人ともに体調を崩し、2003年度テニス・ツアーの後半戦を欠場した。

セリーナは2004年のウィンブルドン選手権決勝で17歳のマリア・シャラポワに敗れ、大会3連覇を逃した。

しかし2005年の全豪オープン決勝でリンゼイ・ダベンポートを破り、2年ぶり2度目の優勝を果たす。

2006年は故障のため試合出場が少なかったが、2007年の全豪オープンでは世界ランキング81位のノーシードから勝ち上がった。

決勝で（3年前のウィンブルドン決勝で敗れた）マリア・シャラポワを 6-1, 6-2 で破り、3度目の全豪優勝を達成。これでセリーナの4大大会シングルス優勝は「8勝」となった。

全豪オープンの女子シングルスでノーシードから優勝した選手は、1978年の優勝者クリス・オニール（オーストラリア）以来である。

セリーナ・ウィリアムズは姉のヴィーナスとともに、女子テニス界にパワーテニスを持ち込んだ選手であると言われる。

彼女たちのショットを見て“女子テニスの中に男子が混じっているようだ”と評されたことさえあるほどである。

特に、サービスのスピードは男子選手並みである。

とはいえ、姉妹でダブルスでのキャリア・グランドスラムを達成したことからも分かるように、パワー一辺倒のプレーではなく、様々なショットをバランス良くこなし、その中で強打を生かすというプレーが見られる。]]>
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   <title>マリア・シャラポワ：Maria Sharapova</title>
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   <published>2007-05-09T10:40:49Z</published>
   <updated>2007-05-21T13:40:39Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="マリア・シャラポワ　　似顔絵　ウィンブルドン" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Sharapova.jpg"  />

マリア・シャラポワ （Maria Sharapova）は、ロシア・西シベリアに位置するチュメニ州ハンティ・マンシ自治管区・ニャガン市出身の女子プロテニス選手である。


■国籍 ロシア 

■出身国/居住国 ロシア/アメリカ 

■生年月日 1987年4月19日
 
■性別 女 

■利き腕 右利き (バックハンド両手打ち) 

■身長 188 cm 

■体重 59 kg 

■プロ転向日 2001年 


ニックネームは「ロシアの妖精」。

左利きだったというが、矯正で両方使える。

バックハンド・ストロークは両手打ち。

ロシア語人名の日本語表記に即したより正確な読みは「マリーヤ・ユーリイヴナ・シャラーパヴァ」になるが、彼女の名前の転写は世界の各言語でも様々である。

4歳の時からテニスを始める。

6歳の頃マルチナ・ナブラチロワに才能を見い出され、7歳の頃父親とともに渡米した。

ただし、ナブラチロワはこの時のことを後日談で「全然記憶にない」と話している。

ずば抜けた才能と言うよりも、センスを磨き練習で培った実力というべきなのであろう。

渡米後はフロリダ州のニック・ボロテリー・テニスアカデミーにて練習開始。

現在はフロリダ州ブラーデントンに在住している。


マリア・シャラポワは2003年のウィンブルドン3回戦で第11シードのエレナ・ドキッチを破り、一躍時の人になった。

この大会では続く4回戦で同じロシアの選手、スベトラナ・クズネツォワに敗れた。

2004年には全仏オープンで準々決勝に進出した後、ウィンブルドンで初優勝を飾り、1997年のマルチナ・ヒンギス（16歳9ヶ月）に次ぐ大会史上2番目の年少優勝記録を樹立した。

女子テニスで18歳未満の選手が4大大会を制したのは、1999年全米オープンのセリーナ・ウィリアムズ（17歳11ヶ月）以来であった。

2005年は、2月に東京体育館で開催された東レ・パン・パシフィック・テニスにおいてリンゼイ・ダベンポートを破って初優勝を果たし、好調なスタートを切る。

しかし、ウィンブルドンでは準決勝でヴィーナス・ウィリアムズに 6-7, 1-6 で敗れ、大会2連覇はならなかった。
同年8月22日、ロシアの女子テニス選手としては初めて世界ランキング1位となる。

また、大会のグレードがTier III（ティア3）であるAIGジャパン・オープンについては、2005年度以降WTAの世界ランキングの規定により出場する権利がなくなった。

2006年2月4日、東レ・パン・パシフィック・テニス準決勝で当年度から現役復帰したマルチナ・ヒンギスに 3-6, 1-6 で敗れ、大会連覇を逃した。（その後ヒンギスには3月上旬の「インディアンウェルズ・マスターズ」で勝った。）

2007年の大会では、全豪オープン決勝でセリーナ・ウィリアムズに完敗した試合の直後でもあり、脚の不調もあってサービスが乱れた。

2月3日の準決勝でセルビアのアナ・イワノビッチと対戦した時、第1セットを 1-6 で落とした後メディカル・タイムアウトを取り、第2セットの第1ゲーム終了後に途中棄権を申し出た。


マリア・シャラポワは、テニスプレーヤーとは別にファッションモデルとしても活躍しており、ファッション雑誌の人気も高い。

2004年の東レ・パン・パシフィック・テニスとウィンブルドン3回戦で実現したダニエラ・ハンチュコワとの“美少女対決”はどこでも抜群の観客動員力がある。]]>
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   <title>杉山　愛（すぎやま　あい）：Sugiyama　Ai</title>
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   <published>2007-05-07T10:58:50Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:50:37Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="杉山愛　ウィンブルドン　イラスト" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Sugiyama.jpg"  />

杉山 愛（すぎやま あい）は、神奈川県横浜市出身の女子プロテニス選手。

■国籍 日本 

■出身国/居住国 日本/日本 

■生年月日 1975年7月5日 

■性別 女 

■利き腕 右利き (バックハンド両手打ち) 

■身長 163 cm 

■体重 55 kg 

■プロ転向日 1992年 

自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス1位。

これまでにWTAツアーでシングルス6勝、ダブルス33勝を挙げる。

世界トップレベルのフットワークとバックハンド・ストロークを武器にする。


杉山愛はダブルスの名手としてよく知られ、1999年の全米オープン混合ダブルスではインドのマヘシュ・ブパシとペアを組んで優勝した。

2000年と2003年、杉山愛はダブルス世界ランキング1位を記録した。

杉山愛は、シングルスとダブルスの同時トップ10入りは日本人初であるとともに、世界でも限られたトップレベルのオールラウンド・プレーヤーであることを意味する。

2000年の全米オープン女子ダブルスで優勝した時の杉山愛のパートナーは、フランスのジュリー・アラール・デキュジスであった。

しかしアラール・デキュジスが直後に現役を引退したため、杉山愛は長い間パートナー探しに苦労を重ねた。

その後ベルギーのキム・クライシュテルスと名コンビぶりを発揮し、2003年の全仏オープンとウィンブルドンのダブルスで4大大会2連勝を達成する。

しかし、クライシュテルスがシングルスに専念するため、2003年のWTAツアー選手権を最後にペアを解消する。

杉山愛は再びパートナー探しに悩み、2004年は南アフリカのリーゼル・フーバーと組んだ。

その後、急遽ロシアのエレナ・デメンティエワをパートナーに指名したが、このコンビは臨時の組み合わせであった。

その後、杉山愛はスロバキアのダニエラ・ハンチュコワと組み、2006年の全仏オープンで決勝に進出したが、リサ・レイモンド（アメリカ）＆サマンサ・ストーサー（オーストラリア）組に敗れて準優勝になった。]]>
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   <title>ジョン・マッケンロー：John McEnroe</title>
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   <published>2007-05-07T10:35:50Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:39:10Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="ジョン・マッケンロー　テニス選手" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/McEnroe.jpg" width="200" />]]>
      <![CDATA[<img alt="ジョン・マッケンロー　テニス選手" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/McEnroe.jpg"  />

<strong>ジョン・マッケンロー</strong>（John McEnroe）は、アメリカの男子プロテニス選手。

■国籍 アメリカ 

■出身国/居住国 ドイツ/アメリカ 

■生年月日 1959年2月16日 

■性別 男 

■利き腕 左利き 

■身長 180 cm 

■体重 75 kg 

■プロ転向日 1978年 


<strong>ジョン・マッケンロー</strong>は、父親の軍務地であったドイツ・ヴィースバーデンで生まれる。

父親は著名な弁護士で、弟のパトリック・マッケンローはプロテニス選手。

<strong>ジョン・マッケンロー</strong>はATPツアーでシングルス76勝、ダブルス70勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。

4大大会では男子シングルス7勝・男子ダブルス9勝・混合ダブルス1勝を挙げた。

ダブルスでは旧友ピーター・フレミングと組んで57個（うち4大大会7勝／同一ペアの優勝記録としては歴代2位）のタイトルを獲得した。

<strong>ジョン・マッケンロー</strong>は、試合中に審判の判定が気に入らないとすぐ暴言を発し、マナーが非常に悪いことから“悪童マッケンロー”と呼ばれた。



<strong>ジョン・マッケンロー</strong>は、1976年から選手生活を始め、1977年、18歳でウィンブルドン選手権ベスト4に進出。 

その後、スタンフォード大学に進学するが、大学を中退してプロ入り。

翌 1979年には全米オープン決勝に進出し、ビタス・ゲルレイティスを で破って、20歳の若さで四大大会初タイトルを獲得する。

1980年、ウィンブルドンで初の決勝進出を果たし、大会5連覇を目指すビョルン・ボルグに敗れたが、3時間55分に及ぶ戦いはテニス史上に残る名勝負として今なお語り継がれている。

しかし、同年の全米オープン決勝で同じボルグを 7-6, 6-1, 6-7, 5-7, 6-4 とフルセットの末に破ると、翌 1981年のウィンブルドンでは、再び決勝で相まみえたボルグを破り、前年の雪辱を果たして初優勝、続く全米オープンでも2年連続決勝でボルグを破って、同大会3連覇を達成すると共に、ATPランキング1位の座をボルグから奪い取って、マッケンロー時代の幕開けを告げた。

1982年は、ウィンブルドンは決勝でコナーズ、全米オープンは準決勝で新たに台頭してきた最大のライバル・イワン・レンドルに共に破れて、四大タイトル無冠に終わり、またレンドルを0勝4敗・前年から6連敗と苦手としたが、年間ランキング1位は死守する。

1983年以降は充実期を迎え、同年のウィンブルドン、1984年はウィンブルドン、全米オープンの2冠を獲得、両年とも年間ランキング1位をキープし、名実共にトッププレーヤーとしてテニス界に君臨する。

特に<strong>ジョン・マッケンロー</strong>は、絶頂期 1984年は、プレースタイル的に苦手な全仏オープンこそレンドルに破れて準優勝に終わったものの、優勝した全米オープンではそのレンドル、ウィンブルドンでは前々年に苦杯を嘗めたコナーズを、共に決勝で圧倒。

ツアーを通じてもレンドルに6勝1敗、コナーズに6勝0敗と、当時のランキング2位、3位である2人を全く寄せ付けず、最終的に全14の大会に出場して12大会で優勝、デビスカップでの1敗を合わせても、年間わずかに3敗という圧倒的な戦績を残した。

1985年に入ると、年明けのマスターズは前年の勢いでレンドルを一蹴。

あまりの強さにロッド・レーバー以来の年間グランドスラムの可能性さえ囁かれたが、最初にして最大の関門・全仏オープンでクレー巧者・マッツ・ビランデルに屈すると、5年連続決勝進出中・優勝に死角なしと思われたウィンブルドンでも、準々決勝で伏兵のビッグサーバー・ケビン・カレンに足下をすくわれ、まさかの敗退。

唯一決勝に進出した全米オープンもレンドルに前年の雪辱を許し、四大タイトル無冠に終わっただけでなく、ランキング1位もレンドルに奪われると、以後、1986年・1987年は背中の故障などもあって出場試合数が激減。

出場した試合でも低迷が続き、ボリス・ベッカーなどの新勢力の台頭もあって、突如、マッケンロー時代は終焉を迎える。

1988年、前年の出場停止処分に端を発した長期休養から、復活を期して4月のジャパン・オープンを復帰戦として選択すると、有明コロシアムで行われた決勝では、新勢力の代表・ステファン・エドバーグを 6-2, 6-2 で破って優勝した。

一方、ダブルスでは、その後も活躍を続け、オーストラリアのマーク・ウッドフォードとペアを組んだ1989年の全米オープンで優勝する。

引退を表明した1992年にも、ドイツのミヒャエル・シュティヒと組んで8年ぶりにウィンブルドンで優勝を飾った後、デビスカップでもピート・サンプラスとペアを組んで、決勝のスイス戦では2セットダウンから逆転勝ちして優勝を決めるなど、最後の活躍を見せている。

特にシュティヒとペアを組んでジム・グラブ＆リッチー・レネバーグ組（ともにアメリカ）を 5-7, 7-6, 3-6, 7-6, 19-17 で破った決勝の試合時間「5時間1分」は、ウィンブルドン男子ダブルス決勝の史上最長時間記録である。

1992年に33歳で現役を引退した後は、テレビ解説者として活躍する一方、ボルグ等と共にシニアツアーに参加し、来日も果たす。

また1999年のウィンブルドンでは、すでに引退を表明していたシュテフィ・グラフとペアを組んで混合ダブルスに出場した他、2006年には突如ダブルスでツアー復帰を宣言し、ヨナス・ビョークマンとペアを組んだサンノゼ・SAPオープンで優勝を飾っている。マッケンロー47歳、ビョークマン33歳ペアの優勝は、記録的にも特筆に値する。

1999年に国際テニス殿堂入り。]]>
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   <title>アンドレ・アガシ：Andre Agassi</title>
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   <published>2007-05-07T10:32:36Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:40:32Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="アンドレ・アガシ　テニス選手" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Agassi.jpg" width="200" />]]>
      <![CDATA[<img alt="アンドレ・アガシ　テニス選手" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Agassi.jpg"  />

<strong>アンドレ・アガシ</strong>（Andre Agassi）は、アメリカ・ラスベガス出身の元男子プロテニス選手。

■国籍 アメリカ 

■出身国/居住国 アメリカ/アメリカ 

■生年月日 1970年4月29日
 
■性別 男 

■利き腕 右利き 

■身長 180 cm 

■体重 78 kg 

■プロ転向日 1986年 


両親はイランからの移民者で、父親はアルメニア系の元ボクシング選手、母親はアッシリア人である。

“世界一のリターナー”と言われる強力なリターンを最大の武器にした。

ATPツアーでシングルス60勝、ダブルス1勝を挙げた。

フルネームは Andre Kirk Agassi （アンドレ・カーク・アガシ）という。

アガシは4大大会を選手生活中にすべて制覇する「キャリア・グランドスラム」を達成した数少ない男子選手のひとりである。

4大大会通算「8勝」は、ジミー・コナーズやイワン・レンドルらと並ぶ男子歴代7位タイ記録である。



<strong>アンドレ・アガシ</strong>（は若い頃から、ライジング打法を用いた積極的に攻めるテニスを得意としたが、ともすると強引にエースを狙いすぎる傾向があり、自分のリズムを崩してしまうこともたびたびであった。

キャリアの後半はライジング打法をカウンターとして用い、非常に安定したテニスを繰り広げてきた。

彼が30歳代を迎えても、長い間世界トップ10に君臨できた最大の要因は、相手がどんなプレースタイルだろうと、どんなサーフェスのコートだろうと決して自分のスタイルを崩すことのない冷静さと器用さを身につけたこと、そして誰よりもウェートトレーニングをこなし、肉体のメンテナンスを怠らなかったからである。


デビュー当初のアガシは、ロックスターさながらのブロンドの長髪にピアス、奇抜なウェア、コート上でのエキサイトぶりで話題になり、世界のファッションにも大きな影響を与えた。

キャリアの後半はスキンヘッドで、ノーマルに落ち着いたウェアを着こなしていた。

21年間の選手生活を通じて、アガシはテニス界のカリスマ的存在になり、世界中の選手たちから尊敬を集めてきた。


<strong>アンドレ・アガシ　4大大会優勝歴</strong>

全豪オープン：4勝（1995年、2000年、2001年、2003年） 
全仏オープン：1勝（1999年）　［この優勝で4大大会完全制覇を達成］ 
ウィンブルドン：1勝（1992年） 
全米オープン：2勝（1994年、1999年） 


<strong>アンドレ・アガシ</strong>（のATPツアー初優勝は1987年11月のブラジル・イタパリカ大会で、最後の優勝は2005年7月のアメリカ・ロサンゼルス大会であった。

4大大会通算224勝（53敗）は、ジミー・コナーズ（233勝）に次いで歴代2位記録となった。]]>
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   <title>クリス・エバート：Chris Evert</title>
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   <published>2007-05-05T10:46:07Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:13:13Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="クリスエバート　テニス" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Evert.jpg" width="200"  />]]>
      <![CDATA[<img alt="クリスエバート　テニス" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Evert.jpg"  />

クリス・エバート（Chris Evert）は、アメリカ・フロリダ州フォートローダーデール出身の元女子プロテニス選手。

■国籍 アメリカ
 
■出身国/居住国 アメリカ/アメリカ 

■生年月日 1954年12月21日 

■性別 女 

■利き腕 右利き (バックハンド両手打ち) 

■身長 168 cm 

■体重 56 kg 

■プロ転向日 1972年 
　

クリス・エバートは、コート上で全く表情を変えずにプレーしていたことから、“アイス・ドール”（氷の人形）というニックネームで呼ばれた選手だった。

全仏オープン「7勝」の大会最多優勝記録保持者であり、エバート自身もフランスが好きなことから「パリの恋人」とも称された。

4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのマルチナ・ナブラチロワと並ぶ女子歴代4位タイ記録。

クリス・エバートは、WTAツアーでのシングルス通算「157勝」の歴代2位記録も保持している。

右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。

フルネームは Christine Marie Evert （クリスティン・マリー・エバート）というが、「クリス・エバート」の名前で最もよく知られている。

“Chrissie”（クリッシー）という愛称で呼ばれることも多い。



クリス・エバートは、1972年12月21日、18歳の誕生日にプロ入りする。

1974年の全仏オープンで4大大会初優勝を果たし、続くウィンブルドンも初制覇。

この頃ジミー・コナーズ選手と交際したが、婚約破棄に終わる。

1975年-1978年に全米オープンで大会4連覇を達成した。

1979年にイギリスの男子プロテニス選手、ジョン・ロイドと結婚し、夫の姓を併用して「クリス・エバート・ロイド」（Chris Evert-Lloyd）と名乗るようになった。

クレーコート（赤土）「125連勝」の記録も樹立したが、1979年の全仏オープン前哨戦「イタリアン・オープン」の準決勝で、16歳の新星トレーシー・オースチンに敗れて記録が止まる。

同年の全米オープン決勝でもオースチンに敗れ、大会5連覇を逃した。

1980年代に入ってからは、クリス・エバートのライバルの座をマルチナ・ナブラチロワが占めるようになる。

2人は現役生活を通じて「80回」対戦し、最終的な対戦成績はナブラチロワの「43勝37敗」となった。

最後の4大大会優勝となった1986年の全仏オープンは「31歳5ヶ月」での制覇で、大会史上2番目の年長優勝記録となった。

1974年 - 1986年まで「13年連続」での4大大会優勝も女子テニス史上最長記録となる。

しかし、ジョン・ロイドと離婚した1987年に連続優勝記録が止まった。

この年にシュテフィ・グラフが世界ランキング1位となり、女子テニス界は世代交代期を迎える。

離婚後の1988年、全豪オープンでエバートは最後の4大大会決勝に進出したが、当時18歳のグラフに 1-6, 6-7 で敗れた。

これでクリス・エバートの4大大会女子シングルス決勝進出記録は「通算34度」＝「18勝16敗」で終わった。

決勝進出34度は女子歴代1位記録で、2位はマルチナ・ナブラチロワの32度（18勝14敗）、3位はシュテフィ・グラフの31度（22勝9敗）である。

最後まで“アイス・ドール”のイメージを守り続けたクリス・エバートは、1989年に35歳で現役引退を表明した。

最後の4大大会出場となった1989年全米オープンでは、準々決勝でジーナ・ガリソン（アメリカ）に 6-7, 2-6 で敗れた。

同年10月に日本の東京・有明コロシアムで行われた女子国別対抗戦「フェデレーション・カップ」（現在の名称はフェドカップ）でアメリカ・チームを優勝に導いたが、これがクリス・エバートの現役最後の試合となった。

クリス・エバートは、1995年に国際テニス殿堂入りを果たしている。]]>
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   <title>ダニエラ・ハンチュコワ（ハンチュコバ）：Daniela Hantuchová</title>
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   <published>2007-05-04T13:44:04Z</published>
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      <![CDATA[<img alt="ダニエラ・ハンチュコワ（ハンチュコバ）" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Hantuchova.jpg"  />

ダニエラ・ハンチュコワ（ダニエラ・ハンチュコバ）（Daniela Hantuchová）は、スロバキア・ポプラト（Poprad）出身の女子プロテニス選手。

■国籍 スロバキア 

■出身国/居住国 スロバキア/モナコ 

■生年月日 1983年4月23日 

■性別 女 

■利き腕 右利き (バックハンド両手打ち) 

■身長 181 cm 

■体重 56 kg 

■プロ転向日 1999年 




ダニエラ・ハンチュコワ（ダニエラ・ハンチュコバ）は、メディアによっては、ハンチェコバ、ハンチュコバ、ハンチコバ、ハンツコーワ、ハンツコーヴァなど呼び方が違っている。

自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス5位。

これまでにWTAツアーでシングルス2勝、ダブルスで8勝を挙げている。


ダニエラ・ハンチュコワ（ダニエラ・ハンチュコバ）は、テニス界屈指の美人選手としても人気がある。

1999年5月にプロ入り。2002年3月の「インディアンウェルズ・マスターズ」（パシフィック・ライフ・オープン）でWTAツアー初優勝。

決勝でマルチナ・ヒンギスを 6-3, 6-4 で下して一躍有名になった。

この年は女子テニス国別対抗戦・フェドカップでも、スロバキア・チームを初優勝に導いている。

2002年ウィンブルドンから2003年全豪オープンまで、ハンチュコワは4大大会の女子シングルスに3大会連続でベスト8入りを果たした。


ダニエラ・ハンチュコワは2005年の全仏オープンとウィンブルドン、2006年の全豪オープンと全仏オープン女子ダブルスで、日本の<a href="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/080/sugiyama.html">杉山愛</a>とペアを組んだ。

2006年全仏オープンの女子ダブルス決勝で、ハンチュコワと<a href="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/080/sugiyama.html">杉山愛</a>は第1シードのリサ・レイモンド（アメリカ）＆サマンサ・ストーサー（オーストラリア）組に 3-6, 2-6 で敗れて準優勝に終わっている。

2007年3月、ハンチュコワはインディアンウェルズ・マスターズ決勝でスベトラナ・クズネツォワを 6-3, 6-4 で破り、同大会で5年ぶり2度目の優勝を飾った。

ハンチュコワの女子ツアー大会シングルス優勝も、これが5年ぶりの2勝目になる。

ハンチュコワは混合ダブルスに強く、この部門では4大大会ですべてのタイトルを獲得し、通算4勝を挙げている。

2005年に全仏オープンと全米オープンで混合ダブルスの年間2冠獲得を達成した。]]>
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   <title>マラト・サフィン（マラット・サフィン）：Marat Safin</title>
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   <published>2007-05-03T13:46:45Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:41:52Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="マラト・サフィン　ウィンブルドン　テニス" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Safin.jpg"  />

マラト・サフィン（Marat Safin, Мара́т Миха́йлович Са́фин）は、ロシア・モスクワ市出身の男子プロテニス選手。

■国籍 ロシア 

■出身国/居住国 ロシア/モナコ 

■生年月日 1980年1月27日 

■性別 男 

■利き腕 右利き 

■身長 193 cm 

■体重 88 kg 

■プロ転向日 1997年 


マラト・サフィン（マラット・サフィン）は、2000年の全米オープンと2005年の全豪オープンで優勝し、4大大会2勝を挙げた実力者である。

1996年の全仏オープンで優勝したエフゲニー・カフェルニコフに続き、ロシアの男子テニス選手として2人目の4大大会優勝者になった。

マラト・サフィン（マラット・サフィン）は、身長193cmの長身から放たれる「キャノン・サーブ」という愛称の弾丸サーブと、両手打ちバックハンドの技術の中でも「ジャックナイフ」を得意にしている。


右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。

これまでにATPツアーでシングルス15勝を挙げている。

6歳年下の妹ディナラ・サフィナもプロテニス選手である。]]>
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   <title>アンディ・ロディック：Andy Roddick</title>
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   <published>2007-05-03T10:56:53Z</published>
   <updated>2008-05-19T16:24:59Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="アンディ・ロディック テニス選手" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Roddick.jpg" width="200" />]]>
      <![CDATA[<img alt="アンディ・ロディック テニス選手" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Roddick.jpg" />

<strong>アンディ・ロディック</strong>（Andy Roddick）は、アメリカ・ネブラスカ州オマハ出身の男子プロテニス選手。

■国籍 アメリカ 

■出身国/居住国 アメリカ/アメリカ 

■生年月日 1982年8月30日 

■性別 男 

■利き腕 右利き 

■身長 187 cm 

■体重 88 kg 

■プロ転向日 2000年 


<strong>アンディ・ロディック</strong>は、2003年の全米オープン男子シングルス優勝者である。

世界最高速度を誇り、同時に抜群の安定感を持つサーブを最大の武器とする。

いかにもアメリカの若者らしい、率直な感情表現でも人気がある。



フルネームは Andrew Stephen Roddick （アンドリュー・スティーブン・ロディック）という。

2001年春から頭角を現し、アメリカが待ち望んできた男子テニス界の新星として期待を集め始める。

<strong>アンディ・ロディック</strong>は、2003年全米オープンの男子シングルスで4大大会初優勝。

決勝戦では当年度の全仏オープン優勝者、ファン・カルロス・フェレーロ（スペイン）を 6-3, 7-6, 6-3 のストレートで圧倒した。

<strong>アンディ・ロディック</strong>はこの優勝により、それまで長年アメリカの男子テニス界を支えてきたピート・サンプラスとアンドレ・アガシの“後継者”として、さらに大きな注目を集めた。

ウィンブルドン選手権では2004年と2005年の2年連続、決勝でロジャー・フェデラーに敗れて準優勝になった。
（フェデラーには2003年の同大会準決勝でも敗れているため、3年連続の苦杯となる。）

2005年の全米オープンでは、1回戦でルクセンブルクのギレス・ミュラーに不覚を取り、6-7, 6-7, 6-7 のストレートで敗退した。

2006年の全豪オープンで、<strong>アンディ・ロディック</strong>は4回戦でキプロスのマルコス・バグダティスに 4-6, 6-1, 3-6, 4-6 で敗退する。

その後、ウィンブルドンでは3回戦でイギリスの新星アンディ・マレーとの“アンディ対決”に敗れてしまった。

ウィンブルドン選手権の終了後、<strong>アンディ・ロディック</strong>は7月26日から新コーチとして往年のスーパースターだったジミー・コナーズを招聘した。

コナーズに師事し始めた後、全米オープンで3年ぶり2度目の決勝進出を果たしたが、またもやフェデラーに 2-6, 6-4, 5-7, 1-6 で敗れて準優勝に終わった。

<strong>アンディ・ロディック</strong>は4大大会では決勝や準決勝といった大舞台でたびたびフェデラーに敗れており、フェデラー時代の引き立て役になってしまっているのが現状である。

今後キャリアを形成していく上で、打倒フェデラーは大きな課題であると言えるだろう。

<strong>アンディ・ロディック</strong>はその人気を生かし、児童虐待などの防止を呼びかけるチャリティーリストバンドをプロデュースするなど、社会的な活動も積極的に行っている。]]>
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   <title>マルチナ・ヒンギス：Martina Hingis</title>
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   <published>2007-05-03T10:43:59Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:36:12Z</updated>
   
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<strong>マルチナ・ヒンギス</strong>（Martina Hingis）は、スイスの女子プロテニス選手。

■国籍 スイス 

■出身国/居住国 スロバキア/スイス 

■生年月日 1980年9月30日 

■性別 女 

■利き腕 右利き (バックハンド両手打ち) 

■身長 170 cm 

■体重 59 kg 

■プロ転向日 1994年 


<strong>マルチナ・ヒンギス</strong>は、チェコスロバキア（現スロバキア）のコシツェに生まれる。

右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。

安定したバックハンドのストレートを武器にする、融通のきく頭脳プレーの名手である。

<strong>マルチナ・ヒンギス</strong>は早熟選手であったことから、女子テニス界における数々の最年少記録を保持している。

16歳の時に達成した4大大会初制覇（1997年全豪オープンに16歳3ヶ月で優勝）、世界ランキング1位（16歳6ヶ月）、4大大会年間3冠獲得はすべて歴代最年少記録である。


<strong>マルチナ・ヒンギス</strong>は、1994年10月14日、14歳の誕生日の2週間後にプロデビュー。

直ちに1995年の全豪オープンで4大大会に初出場を果たし、同年の女子テニス協会「最優秀新人賞」を受賞する。

1996年10月にドイツ・フィルダーシュタットの「ポルシェ・グランプリ」でWTAツアー初優勝。

女子ツアー年間最終戦（当時の名称は「チェイス選手権」）に大会初出場で準優勝、年末の最終ランキングを4位に上げる。

<strong>1997年1月25日、4大大会史上最年少の「16歳3ヶ月」で全豪オープン初優勝を達成。</strong>

同年3月31日に「16歳6ヶ月」で史上最年少の世界ランキング1位になり、こうしてヒンギスはモニカ・セレシュが持っていた2つの最年少記録を更新した。（セレシュの記録：1990年全仏オープンに16歳6ヶ月で優勝、1991年3月に17歳3ヶ月で世界ランキング1位）

その後、<strong>マルチナ・ヒンギス</strong>は、ウィンブルドン、全米オープンも制覇し、史上最年少の16歳で4大大会3冠を達成した。

ヒンギスは少女時代から日本での広告出演で人気を獲得し、グリコの「カフェオーレ」（1996年）やタニタのヘルスメーター、日本食研の「バランスデイト」（ともに1998年）のテレビCMで日本語を披露したことで、日本でも人気のある選手である。

しかしながら、あまりにも早くして頂点に上り詰めたせいか、ヒンギスは徐々にテニスへの情熱を失っていく。

この頃から女子テニス界は、リンゼイ・ダベンポートやヴィーナス、セリーナのウィリアムズ姉妹などのパワーテニスの時代になりつつあった。

情熱を失ったヒンギスは、彼女たちに押されてゆき、少しずつテニス成績が降下していった。

1999年全豪オープンを最後に、<strong>マルチナ・ヒンギス</strong>は4大大会のシングルス優勝から見放されてしまう。

唯一優勝がない全仏オープンでは、1997年の決勝ではクロアチアのイバ・マヨリに 4-6, 2-6 のストレートで敗れ、2年後の1999年にはシュテフィ・グラフとの“新旧女王対決”の決勝で 6-4, 5-7, 2-6 の逆転で敗れてしまった。

全豪オープンではシングルスで「6年連続」決勝進出の記録を持つが（1997年 - 2002年）、最初は大会3連覇、後は3年連続準優勝になっている。

2002年の全米オープン4回戦でモニカ・セレシュに完敗した後、2002年10月にドイツ・フィルダーシュタットの「ポルシェ・グランプリ」2回戦敗退を最後にツアーから離れ、2003年の全豪オープンの時期に新聞を通じて引退表明を行った。

それ以後は日本で開催される「ヨネックス・テニス・フェスティバル」に参加するなど、競技とは異なる分野でテニス振興活動を続けてきたが、2005年11月に次年度からの現役復帰を表明する。

その後、2006年1月にオーストラリア・ゴールドコーストの「モンディアル・オーストラリア女子ハードコート選手権」で現役復帰を果たし、フラビア・ペネッタ（イタリア）との準決勝まで勝ち進む。

全豪オープンで4大大会にも復帰し、1回戦でロシアのベラ・ズボナレワに快勝して再出発を飾り、第2シードのキム・クライシュテルスとの準々決勝まで勝ち進んだ（スコア：クライシュテルスの 6-3, 2-6, 6-4）。

2月の東レ・パン・パシフィック・テニス（東京体育館開催）にも4年ぶりに出場し、準決勝でマリア・シャラポワを 6-3, 6-1 で圧倒したが、2月5日の決勝戦でエレナ・デメンティエワに 2-6, 0-6 で敗れた。

3ヶ月後の5月21日、イタリア・ローマで行われた「イタリア国際選手権」決勝でディナラ・サフィナ（マラト・サフィンの妹）を 6-2, 7-5 で破り、復帰5ヶ月目で復活優勝を飾った。

5年ぶりの復帰となった全仏オープンでは第12シードを得たが、準々決勝でクライシュテルスに 6-7, 1-6 で連敗した。

その後はウィンブルドン3回戦で杉山愛に敗れ、全米オープンは2回戦で止まったが、8月下旬の「カナダ・マスターズ」準優勝で世界ランキングトップ10にも復帰した。

2007年の全豪オープンでは、2年連続でクライシュテルスに準々決勝で敗れたが、東レ・パン・パシフィック・テニスの決勝でアナ・イワノビッチ（セルビア）を 6-4, 6-2 で破り、大会最多の5度目の優勝を遂げた。

3月初頭にはカタール・ドーハ大会のダブルスでマリア・キリレンコ（ロシア）とペアを組んで優勝し、復帰後のダブルス初優勝を果たした。]]>
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   <title>ヴィーナス・ウィリアムズ：Venus Williams</title>
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   <published>2007-05-03T10:42:51Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:29:14Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="ヴィーナス・ウィリアムズ　ウィンブルドン" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Venus.jpg"  />

ヴィーナス・ウィリアムズ（Venus Williams）は、アメリカ・カリフォルニア州リンウッド出身の女子プロテニス選手。

■国籍 アメリカ 

■出身国/居住国 アメリカ/アメリカ 

■生年月日 1980年6月17日 

■性別 女 

■利き腕 右利き (バックハンド両手打ち) 

■身長 185 cm 

■体重 72 kg 

■プロ転向日 1994年 


ヴィーナス・ウィリアムズは、5人姉妹の4女として生まれる。

1994年10月、同じ年のマルチナ・ヒンギスと同時期に14歳でプロ転向。

しかし学業を優先する父親リチャードの教育方針により、最初の2年間は出場試合数を絞っていた。

1997年3月からヴィーナス・ウィリアムズはWTAツアーに本格参戦を開始。

同年の全仏オープンで4大大会にデビューする（1回戦の相手は日本の沢松奈生子選手であった）。

1997年の全米オープンで、世界ランキング66位のノーシードから決勝進出。

ヒンギスに 0-6, 4-6 で完敗したが、黒人少女の登場は強烈な印象を与えた。

この頃から妹のセリーナ・ウィリアムズとともに、黒人スポーツ選手として“テニス版タイガー・ウッズ”を目標にしてきた。


ヴィーナス・ウィリアムズは1998年3月に世界トップ10入り。

1999年3月の「リプトン国際選手権」で、妹セリーナと初めての“姉妹対決の決勝”を戦う。

セリーナが1999年の全米オープンで優勝したため、4大大会優勝では妹に先を越されたが、ヴィーナスは2000年のウィンブルドン選手権で4大大会初優勝を果たした（この時は準決勝でセリーナと姉妹対決をしている）。

同年の全米オープンで4大大会に2連続優勝。シドニー五輪でも単複の金メダルを獲得し、シングルス「35連勝」を記録した。

2001年もウィンブルドンと全米オープンで大会2連覇。

2001年の全米オープンで、姉妹の宿願であった「4大大会の姉妹対決決勝」を実現させる。

最初の時は姉のヴィーナスが勝利した。

2002年2月、黒人の女子テニス選手として初の世界ランキング1位になる。

しかしこの頃から妹セリーナとの力関係が逆転し始めた。

2002年全仏オープンから2003年全豪オープンまで「4大会連続」で姉妹対決の決勝を実現させるが、妹セリーナに4連敗を喫してしまう。

2003年のウィンブルドンでも決勝でセリーナに敗れた。

その後姉妹2人ともに体調を崩し、2003年度テニス・ツアーの後半戦を欠場する。

姉のヴィーナスは2004年1月からツアーに復帰したが、しばらく4大大会で不本意な早期敗退が続いていた。

しかし2005年のウィンブルドンで復活を遂げ、4年ぶり3度目の優勝を飾る。

第14シードの低位置から勝ち進み、準決勝で大会前年優勝者のマリア・シャラポワに快勝し、決勝戦では（5年前の初優勝と同じ顔合わせ）リンゼイ・ダベンポートに 4-6, 7-6, 9-7 で競り勝った。

ヴィーナス・ウィリアムズの最大の武器は、時速200kmを超える高速サーブである。

最大のライバルであるマルチナ・ヒンギスの頭脳プレーに打ち勝つため、持ち前の体格で強力なパワーテニスを編み出してきた。

そのため、姉妹ともに多くの故障に悩まされてきた。


姉妹の4大大会ダブルス優勝は6度あり、シドニー五輪のダブルス金メダルも獲得した。

初めて姉妹ダブルスで4大大会に出場した1998年全豪オープンでは、3回戦で日本の雉子牟田直子＆宮城ナナ組に敗れている。

1999年全仏オープンの女子ダブルス決勝でマルチナ・ヒンギス＆アンナ・クルニコワ組を破って初優勝して以来、姉妹で組めば無敵の強さを誇ってきた。

しかし、2003年のウィンブルドン女子ダブルス3回戦で、姉妹はロシアペアのエレナ・デメンティエワ＆リナ・クラスノルツカヤ組に敗退した。]]>
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   <title>リンゼイ・ダベンポート：Lindsay Davenport</title>
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   <published>2007-05-02T15:00:23Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:34:18Z</updated>
   
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リンゼイ・ダベンポート（Lindsay Davenport）は、
アメリカ・カリフォルニア州パロスベルデ出身の女子プロテニス選手。</summary>
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      <![CDATA[<img alt="リンゼイダベンポート　ウィンブルドン" src="http://www.tennis-players.info/Wimbledon/images/Davenport.jpg"  />

リンゼイ・ダベンポート（Lindsay Davenport）は、
アメリカ・カリフォルニア州パロスベルデ出身の女子プロテニス選手。

■国籍 アメリカ 

■出身国/居住国 アメリカ/アメリカ 

■生年月日 1976年6月8日 

■性別 女 

■利き腕 右利き (バックハンド両手打ち) 

■身長 189 cm 

■体重 79 kg 

■プロ転向日 1993年 



リンゼイ・ダベンポートは、身長189cmと現在の女子プロテニス界では最長身の選手である。

4大大会では女子シングルスで1998年全米オープン、1999年ウィンブルドン、2000年全豪オープンの3冠を獲得したが、女子ダブルスでも1996年全仏オープン、1997年全米オープン、1999年ウィンブルドンで3度の優勝がある。

これまでにWTAツアーでシングルス51勝、ダブルス36勝を挙げている。

２００６年１２月に、妊娠していることを公表し、現役を引退することを表明した。

ダベンポートは、アメリカ・スポーツ専門局ＥＳＰＮの電話取材に対し、
「引退と言う言葉は好きでないし、あまり使いたくないけれど、私が選手としてテニスをすることはもうありません。今シーズンは身体的にとても厳しい戦いを強いられました。もう自分がツアーを回ってプレーするイメージが持てない。」
とコメント。

また、引退後の予定については、
「まだ何も決めていません。ただ、テニスを離れることについて悲しいといった気持ちは一切ありません。今後はすべてを夫と将来生まれてくる子供のために捧げるつもり。今、まさしく私の第二の人生が始まろうとしています。こんなにエキサイティングなことはありません。」
と話すなど、さっぱりした様子だった。


略歴 
1993年　プロデビュー。 
1994年　年間最終ランキング16位以内の選手が出場可能な「バージニア・スリムズ選手権」に初出場から決勝進出。 
1996年　アトランタ五輪女子シングルスで金メダルを獲得。 
1998年　全米オープンを制覇し、4大大会初優勝。アメリカ人の女子テニス選手として12年ぶりの4大大会優勝を果たす。 
1999年　ウィンブルドン決勝でシュテフィ・グラフを破って初優勝。 
2000年　全豪オープンを初制覇し、4大大会3冠王になる。 
2006年　出産休暇を発表。]]>
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